とある、50歳近い女性作家のエッセイに「こんな歳になるまで、自分のベクトル(生きてゆく方向)が定まらないなんて、自分でも驚いた」とあり、ああやっぱりそうなのね、と思う。

わたしも「このくらいの歳になれば、生きていく軸みたいなものが定まっている」と、昔のわたしが思っていた年齢になったけれど、おかしいほどに、全然なのだった。むしろ、生きれば生きるほど、何が大切で何を守るべきなのか、良く分からなくなっていく。

生き続けるのに何が必要か――家族、お金、仕事、それと。それと、それと。

でも、まあ、いいや、と思う。生きていく軸がなくても、たぶん、生きていける。それは、わたしが望んだ生き方ではないにしても。それに、どれだけの人が「自分の望む生き方を実践しています」というだろうか。

わたしは、自分が望んでいないようにも、生きられる。「人生の困難に次々と打ち勝ってより高い自分」にならなくても、高度なスキルを身につけなくても、わたしはそういうわたしを許せるだろう。人からみれば小さなことかもしれない出来事を乗り越えられなくて、それをずっと抱きしめていくしかない弱いわたしも、人との競争に負け続けるわたしも、幼い頃の夢をかなえられない不甲斐ないわたしも、生き続けられる。弱さも、負け続けることも、不甲斐ないのも、誰に責められようと構わない。強さだけが、勝ち続けることだけが、器用さだけが、生きていくうえで大事だとは、もう、思えない。